文量★★しっかり(約4700文字)
あまり楽しい話ではない。明るくて、希望ある考察を期待して読むと、不快になる可能性があるだろう、と前置きしておかないといけない。
その上で、まず、『お国のために』という言葉から始めよう。これは、skyと現実世界……「感動や情動を生み出す物語や体験」と「現実世界」がどのように関わる可能性があるのか、もしくは、過去にあったか、という話。
【お国のためにという言葉】
小学校で歴史を学べば、聞き覚えのある言葉だと思う。大人にとっては言わずもがな、太平洋戦争の時に立派だとされた思想を、端的に示す文言だ。
総務省の子供と学ぶ太平洋戦争より
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/kids/index.html
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/kids/04_03.html
兵隊さんは戦争にいったら、「お国のためにりっぱに死ぬ」ことが、すばらしいとされていたんだよ。
現代人には全く馴染みのない思想と思考だと思う。戦後の平和教育を受けた世代なら、むしろこの言葉は戦前の悪しき思想として、戦争の犠牲と悔恨と共に聞く言葉だと思う。
同じようなものに、撃ちてし止まむという言葉もある。ざっくりといえば、『敵を撃つまで戦いを止めない』という意味。
撃ちてし止まむ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%92%83%E3%81%A1%E3%81%A6%E3%81%97%E6%AD%A2%E3%81%BE%E3%82%80
これらの思想を、歴史の一つとして学ぶ機会は案外少ないのかもしれない。というのも、この言葉や思想に関して、何を悪とし、何を否定するか、それらはかなり複雑な経緯と歴史と個人の思想を孕む。
ので、此処から先は全て、おいらの視点でおいらの意見、という前提で読んでもらいたい。
【「自己犠牲を賛美する」ということ】
自己犠牲は美しい、というのは、古今東西、宗教にも物語にもよくある。
宗教が、隣人を助けること、持ち得るものを分かち合うこと、そういったものを旨とすることが多いのは言わずもがな。
童話にも寓話にも、『自分の財を手放した者』『他人の為に尽くした者』が報われる話は多い。持ち物すべてを分け与えた少女に星から銀貨が降り注いだように。
正義の味方は、いつだって弱者の為に立ち上がる。その姿はとても感動的だ。
誰かのために行動できる人、というのは、とても美しい。それはそう。おいらもそう思う。
Skyで誰かと協力する体験していたら、自分がつらくて苦しくても、誰かのために立ち上がる力をくれるかもしれない。
誰かのために行動できることは、美しいことだ。
でも、命を使う自己犠牲を賛美するということは、『誰かのために命を使うことは、こんなに素晴らしいことだと、人を誘導すること』は、とても危険な道具になりうる。
それが時間やお金なら、自分の決断で使ってもいい。それらは、後で挽回ができたり、やり直しができること。けれど、自分の命だけは、決して取り返しがつかない。
【戦争と物語、洗脳と体験】
命をかけて何かを為すという物語は、とても感動的だ。例えばヒーローが悪を倒す姿を見て、ヒーローに憧れる子供もいるし。医療ドラマを見て人を救えるお医者さんになりたいと医学部を受ける人もいたりするだろう。
物語は、誰かの憧れや道行きを示すものになることがある。
戦争のとき、自己犠牲というものはとても持て囃される。爆弾を持ってどこそこに突っ込んで、自爆して来いっていうのを、現代日本でやったらやった方も言った方も犯罪になる。でも、それをやったのが、太平洋戦争だった。
誰だって死にたくないし、酷い目に遭いたくない。
でも、そういうときに、それは素晴らしいのだという物語を見ていたら、死のハードルは下がるかもしれない。
戦地で敵兵を倒すことであったり、街を破壊することであったり、戦場で死ぬことを、美しく素晴らしいものだ、と称える物語を見ていたら。
自分の行動も、それらと同じヒーローだと思うかもしれない。国のために、国にいる家族の為に、死んでも良い、と思うかもしれない。
いやいやいや、そんなこと言っても死ぬってわかってるじゃん?嫌だって人いなかったわけ? という問いに。
「お国のために死ぬのは素晴らしい」という裏に、もう一つ物語がある。戦争に協力しない者は非国民で悪いやつなのだ、というものだ。
非国民……つまり、今ここに、この場所に共に生きて生活する仲間ではない、と自分自身を否定されることだ。
自分が生きるコミュニティから否定されること、というのは大変恐ろしくて辛いことだ。イジメだってそう(学校というコミュニティからの排斥)だし、家庭や会社で言うハラスメントもそう。
それが、学校とか会社とか言う単位ではなく、国なのである。お前はこの国に居場所が無い、というものである。
もちろん、戦中なので、国外にも出ていけない。日本が駄目なら海外行けば良いじゃんって話ではない。
だから、非国民にならないように、皆『「お国のためにりっぱに死ぬ」ことが、すばらしい』という物語を信じ込んだ。
外国人は鬼や悪魔のようなもので、それと戦ってる兵士さんは素晴らしいし、そこで死ぬことだって名誉として受け入れて当然のことだった。
これは、物語を戦争に使う、という実例の一つ。
本人の痛みも苦しみも、残された者たちがもう二度と会えない悲しみも憤りも、全部美談として扱われる。だって、自己犠牲は素晴らしいのだから。
そうなれば、戦争に反対する者はいないし、恨まれる事もない。戦争をしたい者達にとって、とても都合が良い。
次に、体験と詐欺について。
人は、見聞きした事より自分が体験したことを重視する。それを悪しき様に使った実例。
宗教詐欺などでよくある手法で、「奇跡をおこします」と言って人を集め、実際に超常現象を体験させる(実際は手品だったり暗示だったりするのだが)。
でも、それを実際に見た人は、「奇跡を見た!」とびっくりして信じ込む。だって自分で体験したんだもの。それを疑う余地はない。
そうして、信者を増やし、宗教詐欺のグループに囲い込み、次は『これを買えば/寄進すれば 幸せになれますよ』と言って、お金を巻き上げていく。
これにネズミ講やマルチという方法を足すと、もっと酷いことになる。例えば、詐欺ですごい経験をして、記念に幸運の壺を買ったとして。それを買ったことで良い気持ちになったとして。
その人が優しくて他人思いの人だったら、『自分みたいに辛い人がいたら、同じ経験をわけてあげたい』と思うかもしれない。『友達や家族を紹介したら、●%還元しますよ』という後押しでもあれば、積極的に幸運の壺を売るだろう。
自分は良いことがあったという体験をしてるから、紹介も100%善意だ。
いやいやそんなまさかー、という人は、今のテクノロジーがどこまで何ができるかを、今一度確認してみると良いと思う。
動画だって画像だっていくらでも加工できるし、例えば、それらを麻薬やドラッグを飲まされた後に見たら、どんな荒唐無稽なものでもそれが真実に見えるかもしれない。
【心を動かされるということ】
運営は、星の子≒プレイヤーである我々だと思っている。その詳細な説明は、タムさんが記事にしているので是非とも見に行って頂いて。
同時に、運営が提供するSkyというゲームは、体験を重視している。プレイヤーがsky王国でのことを自分の事のように経験してほしいと思っている。
そして、skyで提供される体験のうち、常設されているもの。ゲームとしての根幹とクライマックスは、暴風域以降の行為、究極の自己犠牲だ。
つまり、これらを足すと、Skyというゲームは、我々プレイヤーに命をかけた自己犠牲を体験させたいものである。と読み取れる。
『命をかけた自己犠牲が美しいものと持て囃され』、『自己犠牲に対価があり』、『もしくは、自己犠牲を果たさなければデメリットがある』という状況を、とても感動的に体験できるのがSkyだと言える。
暴風域と原罪をクリアしたら星キャンが貰えるし。行かないなら行かないで良いけれど、季節の精霊を自力で開放できないし、貰えるアイテムは極端に少なくなるというデメリットがある。
それに、天空以降の体験はとても美しくて感動的だ。一度それを見れば、知らない人に勧めたくなるだろう。
人は体験したことを重視する。
それが力になることはある。誰かに手を差し伸べられること。自分の犠牲を厭わないこと。それらが美徳であることは間違いない。
けど。
いつか、貴方の周囲に闇がやってきたとき。星の輝きが見えなくなったとき。
『あなたの 命 / 財産 を全てかければ、死後の世界で報われます』
『これはあなたへの試練なのです。この先の困難を超えたら、最高の幸福が貴方を待っているでしょう。恐れず進みなさい。躊躇わずに自分のすべてを差し出しなさい。そうして、その経験を他の人にも伝えてあげなさい』
なーんて、囁くものが現れたら。その時には一度思い出して欲しい。自己犠牲を賛美する物語が、どのように使われてきたかということを。
その裏に、『そうだったほうが都合がいい誰か』がいる可能性を。
さて、長く語りましたが。
腹が立ったのなら、好きなものを悪し様に言われたように感じたのなら。これまで、あなたの中にその可能性は全く無かったということだ。おいら的にはこの記事を書いた意義があるってものである。
ムカっ腹が収まらなければ、もうおいらの記事を何一つ読まなければ良い。
(投稿者がわかるので、その点ここはとても便利だし)
ただ、『そんなわけない!』までは好きに言ってもらって構わないけど、『そんなことを言う七つ星は悪人だ!こいつを許してはならない!消えろ!』とか言い始めたら、おいらはそっと証拠を抑えて出るとこ出ますのでお気をつけください。
つまり、思うまでは自由だよ。言わなければ良いのさ。もしくは、自分の紙の日記帳とか、家族とか友人だけしかいない現実空間……告げ口する人が誰もいないor証拠やログが残らない、そういうところでね。
因みに普通に『いや、●●だからこうじゃないか?』という反論は沢山聞いてみたい。
いや、だっておいらもsky好きだもん。好きなものが、戦争の道具として使われたものと全く同じ形をしている……って、やっぱ嫌だし。
そういう側面もあるよね、というのなら、あなたは多面的な物事の見方ができる人だ。歴史か、芸術か、もしくは戦争か。ナチスドイツやプロパガンダについて学んだことがある人かもしれない。
Skyはそうじゃないから別に大袈裟じゃん?というのなら、まあそれでも良い。でも、今後そうなる可能性は0ではない。例えば、アーティスト達が絶対に逆らえない存在が、そんなふうに命じたりだとか。skyそのものを買い取って……もしくは勝手に利用して、そういう風に使ったりとか。
運営はアーティストだけど仕事でもあるのだから、お金を払って『こういうものを作ってください』って頼まれたら、断る理由は無いのだし。
もしも、Skyをキッカケに現実の自分を振り返ることが多くなったら。作品からメッセージを受け取って、自分の考えや行動を変えるようになったのなら。『何を受け取ったのか』を心の隅で考えていてほしい。それが本当に、世界の為に、誰かの為に、自分の為になるのか。
柔らかくて優しい人ほど、付け入られやすい。それが悲しい話や美しい体験なら尚更。
現実はSkyほど優しくないから、AURORAの歌詞(和訳)を借りれば、世界は優しく無いから。芸術や娯楽の姿をした別のものから、自分を守る為の一つの戒めとして。
もしかしたら創作でよくある顔ありは「それ」の前触れ(一歩もしくは前傾姿勢)かもしれませんね。
(O-O)